2016年12月27日火曜日

「サヴァイビングカスライフ vol5 (ライブ喫茶亀 メルマガ12月号)」片岡フグリ



「なんだこれ?VR?俺、いつヘッドマウントされた?」
と思ってしまうほど、圧倒的に浮世離れした光景がそこには広がっていた。
床一面ピカピカに磨き上げられた大理石。
ゆうに10メートルは越えるであろう頭上にはステンドグラスが控え、
あらゆる神、天使、その他ホーリー方面の、職務:威厳、的方々が揃い踏んで描かれている。
前方祭壇には生オルガンとバイオリン奏者、そして両翼では満面スマイルを湛える聖歌隊が、これ以上ないくらい清く美しい歓喜に溢れた旋律をジュークボックスしており、その過剰な潔癖は、むしろ力ない笑いを誘発するレベルの独特な超越空間を創出していた。
そこは教会。
産まれて初めて行った結婚式であった。


だって、嬉しいこと。
クリスマス、誕生日、記念イベント、などなどあらゆる重要タームには基本、
呼ばれない、誘われない、あったことすら知らない。がもはや定例と化していた。
故に「今度ダチの挙式があってヨォ、おいら、そこに呼ばれちゃってるワケ~~」
という軽薄プロデューサー的題目を折に触れ喧伝できる境遇は、
懐中の缶コーヒーのように、手を伸ばせばそこにあるホットな拠りどころを与え続けてくれていた。

前日夜のライブ演奏を終えてすぐ、メンバーに片付けを任し、その足で夜行バスに乗り込んだ。兵庫県姫路市への到着は翌、朝6時。

前方をたまに通過する怪訝気味なフロントボーイに「俺は客」という軽い威嚇を与えながら、宿泊予定のシティホテルに陣取ること4時間。とある文学賞へ向けての執筆に勤しみながら、「ホテルのロビーもいつまでいられる訳もない」を実体験した。

筆が止まったのを皮切りに、駅前にて名物「明石焼き」で小腹をシャラップ、姫路城隣接の動物園へと移動。
懐かしい道のりだった。数匹のダックスフンドを従えた老婆、牡蠣とビールに舌鼓を打つ夜勤明けのリーマン。週末の関西。

思いの外、園内は広い。幼少の記憶なんて曖昧だ。なんせ入り口のフラミンゴと、出口のびっくりハウスしか覚えていない。
2時間ほどをそこで費やし、城下の喫煙所へ移動すると、何やらローカルなセンテンスがこだましてくる。
「べっちょない、ベっちょないてぇ」
「せやろかなぁ」
「せやせや。べっちょないて、殺されたりはせん。足洗ったんやろ?もう」
小指なき年配者のほのぼのトークをバックに紫煙を燻らし、
時間となったのでスーツに様代えた俺はシャトルバスへと乗り込み、会場へ向かった。
そして、披露宴の扉が開く。

と、以降四時間強のレポートを長々とするのもアレなので、最も純文学していた箇所だけを抜粋して書こうと思う。

会場には主役たる新郎と、もう一名の知り合いしかいなかった。
故に、酒が回るまでは若干の緊張を強いられたものの、東北一人旅の際、知り合いほぼゼロからの名物フルコース、泥酔、意気投合、あだ名の享受、隣り合っての嘔吐、そして旅館のベッドまでをも手にした無敵のコミュニュケーション能力をここぞと発揮し、原料すら判別のつかない「神々のお食べ物」的料理を肴に、談笑、舌鼓を打つことに成功。

新郎と出逢ったのは、とある友人を通してだったが、その友人の姿は会場にはない。
彼と新郎は、敵わなかったが、シェアハウスを目論むほどの仲である。
体調を崩している、と聞いてはいたが、他の理由もあった。
それはいわゆる三角関係のあやというヤツである。
花嫁が、元カノ。
自分も経験があるので、よく分かる。
割り切れてはいてもギクシャクしてしまうあの感じ。
未練はなくとも、親友に寄り添うかつての恋人の姿には出来れば目の当たりたくない。
関係が深ければ深いほどに。
そりゃあ建前上は幸せそうに笑っていて欲しい。
けれど、そうは思えない小さな自分も見たくない。あるいは「今」が揺らぐ瞬間も。

たけなわになった頃、おもむろに新郎は立ち上がる。
「戦隊モノに例えるとすれば、彼女はピンク。でも、俺は主役じゃないんです。
赤レンジャーじゃないんですよ。せいぜいブルー。いつも見ていたブルーです。
レッドは、俺じゃなかったんです」
そう言って、スポットライトが当たった先に居たのは、レッド。いない筈の彼だった。
雄壮と会場を横切り登場した彼は新郎と握手、そして笑顔で共犯者へのいたずら染みたアイコンタクトを交わす。
してやられた観衆は口々に憎まれ口を叩きながらも親愛の情を露わに、彼へと駆け寄る。
こんな真似、俺にはできないな。
「行かねーよ、そんなの」と未だに断ってしまうかも知れない。

胸中が如何様にせよ、二人の「漢」を見た気がして、
正直に言って俺は感動し、涙ぐんだ。
これは、文学じゃないか?そう思った。

いい式だったなぁ、と二次会にまで参加し、命がけで酒と飯を摂取、
ぽんぽこぽんでホテルに戻り、ぐっすりしこたまとことん寝る。
何度目かの寝起きに「あそこまでしても浮気するやつはするんだもんなぁ」と思ったが、口にはしなかった。

執筆原稿は、勘違いで規定枚数を70枚近く軽く見積もっていた為、

あえなく今年は諦めた。また来年。俺は俺で。



2016年12月21日水曜日

おしるこレコーズのレビューブログに、
クソ泥酔してROTH BART BARONを初めて観た日のことを書きました。
http://blog.livedoor.jp/taroomihouse1101/archives/1063204851.html

2016年11月28日月曜日

「サヴァイビングカスライフ vol4 (ライブ喫茶亀 メルマガ11月号)


ふるさとと青春は遠きにありて思うもので、
俺たちはいつだってメソメソしていたい。
かえりたいけどかえれない、もどりたいけどもどれない場所に、
グーグルマップでいつでも逢える。あるいは一万と少々の課金で、
「帰る」ことはいつでも可能だ。
だが、そんな合理的でサバついた話を俺たちはしている訳ではない。
「還る」こと。「あの日」だった頃の自分に、もう一度。

岡田斗司夫が庵野秀明を称し「破壊をもって大切なものを浮き彫りにする」
クリエイターだと分析していたが、「失ったことにして、持っていた」ことにする。
その技法こそが女々しい俺ら男たちの真骨頂だ。
再生産され続けるセーラー服モチーフのミュージックビデオや、アルバムジャケット。
青春と呼び称した日々は、さながら潜伏するアスベスト。ふとした瞬間、
我々の胸に痛みを与える。

帰省は好きだから、よくする。楽だし。お腹もいっぱいだ。
土田世紀が生きていたらボコッボコにされそうな甘ちゃんの言であるが、
父、母、祖母、犬、各位それを喜んでいる風なのだし、
俺に至ってはお小遣いも貰えるし、ウィンウィンなので、よいではないか。

先日、神戸のライブイベントに誘われたので、そのついでにと郷里へ四日ほど逗留した。
大体は、しこたま借りこんだ書籍やDVDを日がな一日かけて消費、
犬と昼寝、母と会食、近隣寺社仏閣のパトロール(エロ本の発見以外に異常のあることはほぼ無い)、時期によっては、友人と謁見、
といったお決まりの「実家コース」を辿ることが常だったが、
今回は数年ぶりの超希少イベント、「同級生ガールとの飲酒」がしめやかに執り行われた。(心配になるくらい客の居ない焼き鳥屋にて)

「だから、おっきい方がいいだけでしょ?」
「わかんないかなぁ、一度でいい。さわってみたいんだよ、その秘宝に。巨大な宝玉に。触れてみたい。それはロマン」
「だったら、そういうお店に行けばいいんじゃないの?一回だけでいいんでしょう?」
「あのね?ワンワン王国ってあるでしょ?犬がいっぱい居る。あぁ~可愛いねぇ可愛いねぇって、
見知らぬ子犬の頭を日がな一日撫で回しますわなぁ、でも、でもね?考えてもごらんよ。そこに愛はありますか?
日々の粗相の世話、吐瀉物を片付けたこともあったさ。大雨の深夜に獣医に駆け込んだこともあったかも知れないね。
そんな日常の中、ふとした休日、何もないふとした朝に、隣で彼女が寝ている。
彼女っていうのはここでは犬のことね?
そんなモフモフを寝起きの肌に感じながら、あ~よしよし、、って撫でる頭の愛しさ、柔らかさ!!」
「何言ってんのか全然わかんない」

といった「巨乳イニシエーション論」を一方的に焚付けながらも、
おおむね(あえてここは平仮名表記にすべきだろう)、会話も弾み、楽しい会見になったことと思う。
が、オーロラの夜はそのベールをかなぐり捨て始めていたに過ぎなかった。

「こうやって二人で飲むなんて、思ってもみなかったよね」
「そうだね、ちゃんと話すのも、、何年ぶりだろう」
「高校から、わたし、遠くに行っちゃったしね」
「中学の時さぁ、俺、ずっと好きだったんだよね」
「え?、、うん。わたしも、好きだったよ」
「は?、、マジで言ってんの?ていうか、あったよね?好きって言ったこと」
「だっけ?なんか、よく覚えてないなぁ」

自分の歌に「宝塚インター」という作品がある。

夢の中では「僕」と呼ぶ
いまとは違う一人称の
それは懐かしい未来のわたし

「あったかも知れない未来」を歌ったものだ。

「じゃあ、付き合ったりしてたら、今とは全然違ったかも知れないね」
「うん、そうだね。きっと、、楽しかったと思う」
「(お?)」
「じゃあ、、帰るね。お父さん呼ぶよ」
「あ、あの!お、送ろっか?家まで」
「えっ」
(と長々と標準語で書いてきたが、
「なんでやねん」「ほんまに~」が飛び交う、
「僕は君を」と言いかけても消える灯がそもそも無い四方は山の播州の片田舎である)

彼女の家までは遠い。その一時間弱の道のりに何を話したのかは、今ではもうほとんど覚えていない。

「遠距離」
「ワンチャン」
という具体的なキーワードも飛び交いはしたが、
その「ときめき」のようなものに名前をつけることもせず、
俺たちは何となく軽い「ジャブ」を繰り返していた。
「自分、頭撫でていいっすか、、?」とか「手、繋いでみてもいいっすか、、?」とか。
一歩ずつ、一歩ずつ。それでも、確信へ到る、懐へ飛び込むアタックはしない。
コーナーで探り合いながら、「勝負」の構えをとったまま、ゴングが鳴らされるのを待っていた。

「じゃあ、もうここでいいよ」
「うん、またね」
「うん、また」
「、、、、」
「、、、、」
「ギュってしていい?」
「え?」
「嘘だよ、うそ。じゃあね」

と別れ、
帰路に拾った快楽天と失楽天のセットで、一発抜いて夜に紛れた。
月ではとても照らし切れない。田舎の夜は存外に暗い。
少しだけ荒くなった自分の息に、川の音だけが張り付いていた。

大人だったら踏み込んでいたろうか。
大人だったら、どうしてたんだろう。

浮ついた夜。若さをもてあそぶ俺たちの、最後の純情。
ふるさとと青春は遠きにありて思うもの。
いつだって俺たちは欲しかったものを飾ったままで、パッケージを開ける勇気がない。
「開けないと、遊べないよ?」
わかってる。わかり過ぎるくらいに。






2016年11月23日水曜日

来月、個人的にキュン死に必須なイベントがあります。

「美少年」
12/9(金)下北沢古書ビビビ
START20:30 ¥1000
坪内和夫
冷牟田敬
片岡フグリ
どろうみ

フライヤーもデザインしました。


2016年11月16日水曜日

「サヴァイビングカスライフ vol3(ライブ喫茶亀 メルマガ10月号)


界隈が金木犀とやらに包囲され始めている。
秋の恒例となっている、その「香り」なのだが、
一体どれがそうなのか、ずっと分からなかった。

「におい」というものは音よりも遥かに、
伝達の際に要されるボキャブラリーの在庫を求められる。
「ガーンガーーンって、高いところから順序よくコンクリートの塊を落とし続けてるみたいな工事の音で、AM11:00。私の週末の扉が開いてさぁyeah」
なんて言われたとする。うん、なんとなく分かる。

そうねそうね、親方の怒号が遠く、そしてやたらと響く重機の稼働音、
テンポのいいハンマーの打撃音が二度寝のまどろみを誘い、そんな天使の誘惑がかげろうの様に揺れているあの感じね。だが、
「で、気付いたら実験室に変なにおいが立ち込めてるの。
ほら、ビニールが燃えるときの嫌ぁ~な臭いとシャケが腐りかけた時のにおいが混ざったみたいな」
と、鼻経験に一つでもないモノがあると、もうなんだかよく分からない。

とは言え、花屋へ赴き「ねぇ君。金木犀のにおいって、
どんなものなんでしょう?僕と、探してくれませんか」
と古き良き日本映画に於ける祖母の回想、
世界大戦の前線に若くして散った祖父の出征前最後の小粋なプロポーズめいたことは恥ずかしくて出来ない。

そこで、現代文明の利器「ツイッター」にて問いかけをしてみることにした。
すると、全くの他人だが即答をして頂けた方がおり、彼によるとそれは
「でんぷんのり」に似ているにおいなのだそうである。
でんぷんのり?なんだそれ?ちょっとそれ鼻ボキャブラリーに無いっす。
もっとオシャレな横文字の例を出してもらっていいですか?
と答えそうになったが、
「幼稚園の時、黄色い入れ物に入ってた白いのりのことです」との続報。
あー!アレか。と一瞬で察知する。
と言われると、なんとなく覚えがある気がする。
あの「なんとなく何処か帰る場所がある様な気がしてくる」においのことか。
それを俺は知っていて、思い出そうとすると、あるバンドの音楽がともに流れる。

そのバンドを「ブラッドサースティブッチャーズ」という。

時代というものは、人それぞれがそれぞれに持つもので、
金木犀が(でんぷんのりを通し)思い出させてくれた「青春」と名付けられたそれも、
(歪であれ、麗しくあれ)一様に誰もが持つものである。

その代名詞となったのが自分にとってはそのバンドで(細かい概略などは省くが)
上京一年前後の「若さとはこんな淋しい春なのか」期(と呼ぶことに今した)の頃、
あらゆることが上手くいかず、全てを傾けていたバンドも散開、曇天にとおく酒浸り、
川を見に行くことだけが楽しみであり、残された日常だった。

辛く、そしてひょっとしたら一番音楽を求めていた時期に、最も近い場所で、
そして最も大きな音で幾度も幾度も聴き、
そして観たバンドが、今は亡きブッチャーズだった。

数年前、時期は秋から冬のいつか。
渋谷で彼らを観たことを、銀河鉄道の夜のように覚えている。
一番前で、まん真ん中の一番いい場所で、俺は。

終演後、
耳鳴りという名の余韻とほろ酔いで薄いシルクに覆われた様に見えるセンター街。
街頭で安く売れ残っていたワインのボトルを傾けながら、
行ったこともないニューヨークの地下鉄を夢想する。
帰路につく京王線が進むにつれ、酔いも加速していく。
井の頭公園の駅前に止めた自転車が盗まれずにあることを確認したら、
証明写真のボックスで、残ったワインでたった一人のパーティーをした。
小さな頃、押入れの中でしたおままごと。くぐもった声には、
まるで自分と会話をしている様な不思議な魅力がある。

ボトルを一本まるまる空けてしまい、良い感じ以上に回った酔いは、
異常な高揚感と心地いい自棄で俺を包み、
迷惑な電話やメールを数少ない友人や知り合い女性に投げかける無謀な勇気を無理矢理に授けてくる。
が、もちろんそんな迷惑は誰の歯牙にもかけられない。
だけど、酔漢への邪険なその返答でさえも、
既に現実からビヨンドしている意識を、その青い炎を大きくした。

ズタボロにパーフェクトだった俺は公園の砂場ででんぐり返しを繰り返し、
尻もちをつき、肘を擦りむき、己の醜態に大笑いし、
大車輪する頭のバランスをなんとか保ちながら、ipodに這わせた指をシェイクする。

そして、ただ、音だけが響いた(泥酔で目も開けられなかったし)

あの夜のにおいを覚えている。

界隈が金木犀に包囲され始めている。
なんとなく、何処か帰る場所がある様な気がしてくる。
そんな風に思えるのは、過去を手に入れ、
コーヒーを飲める様になった大人の特権だ。

一年で一番、誰にとっても懐かしくセンチメンタルな季節。

そんなのが、あってもいいんじゃないかな。




2016年11月2日水曜日

今週末も学祭巡りです。
土曜は東洋大学、日曜は多摩美術大学でエレファントノイズカシマシのライブを行います。
で、それに先駆けて2014年の多摩美術大学芸術祭とその周辺(学校を追い出されたので)
にて行ったエレファントノイズカシマシのパフォーマンスをドキュメントし、
自分が編集した映像作品「THIS IS NOT ART」がyoutubeにて限定公開されています。















現時点でのエレファントノイズカシマシの特徴とも言える、
空間全てを楽曲と捉える「現場音楽」
の原形が産まれる瞬間が記録された(今思えば)そこそこ貴重な内容になっているかと。
夜長にどうぞ〜。


先日の企画のダイジェスト映像が出来ました!!!!
とても良い内容なので、是非ご覧になってみて下さい。
撮影、編集はもはや盟友、白岩義行さん。
自分は「宝塚インター」という曲を演奏しています。

片岡フグリpre
MELTING SHITTY POP NEXT vol.3
2016/10/7(金)大塚MEETS
出演
片岡フグリ
MONO NO AWARE
ペガサス
しずくだうみ
DJ 剤電
撮影・編集
白岩義行




2016年10月27日木曜日

昨日は大学二年からかれこれ四年くらいやってるエレファントノイズカシマシというバンドのファーストアルバムの立会いミックスに行ってきました。
メンバーの編成も、ライブのやり方もこの四年で目まぐるしく変わって、
その中で何を録ればいいのか。ってずっと考えていたし、その場その場で出すべき音を。
な「現場音楽」にこだわりたい意識も凄くあったから、
ずっとアルバムは出しませんでした。

でもやっぱそろそろなぁ〜って意識もあったし、ありがたい事にそう言ってくださる方も少なからず居たので、
じゃあどういうものをって考えて「ベストアルバム」を作ろうと思いました。
楽曲のない我々、っていうか即興、ノイズに於いてベストって何?っていうことに対しても、今回で一つの答えが出せたかと。

ムークと二人で始めたあの日も、そして今もこれからもずっと俺達はノイズカシマシだし、中二、三くらい(むしろ小学生?)にテレコで初めて「録音」をしたあの日から、
連綿とそれは続いています。

好事家向けには作っていないです、
あくまで「音」を愛する全ての人へ。

楽しみにしていて下さい。






<<ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI>>
2017年初頭、
エレファントノイズカシマシ、
フルアルバム「DISCOVERY」発売決定。
写真 萩原楽太郎
モデル 久富瑠奈
録音 佐藤慎太郎
映像 白岩義行 
詳細後日。


予定

10/28 大塚ミーツ(フグリ)
10/30 横浜国立大学(エレファントノイズカシマシ)
11/5 東洋大学(エレファントノイズカシマシ)
11/6 多摩美術大学(エレファントノイズカシマシ)
11/11 大久保ひかりのうま(フグリ)
11/20 甲府桜座cafe(エレファントノイズカシマシ)
11/21 渋谷喫茶smile(フグリ)
11/29 神戸スタークラブ(フグリ)
12/3 落合スープ(エレファントノイズカシマシ)
12/4 新宿バーブエナ(エレファントノイズカシマシ)
12/8 大阪松屋町地下一階(エレファントノイズカシマシ)
12/9 下北沢古書ビビビ(フグリ)
12/10 西荻窪フラット(エレファントノイズカシマシ)
12/11 半蔵門アナグラ(エレファントノイズカシマシ)
12/11 名古屋鶴舞DAYTRIP(エレファントノイズカシマシ)
12/17 外苑前アートスペースここから(エレファントノイズカシマシ)
12/23 鶯谷ワッツアップ(フグリ)

2016年10月10日月曜日

東京藝術大学音楽学部の田中志遠さんが制作されたZINE「アレ」の第一号にエレファントノイズカシマシのインタビューが掲載されています。
結成の経緯やこれまでの動向などが、これまでに世に出ているものの中で最も分かりやすくまとめられていると思います。
一冊300円で、郵送も行っているそうです。
自分が中継しますので、気になる方はこちらへメールください。
kusomamireore@gmail.com









ノイカシ物販にも届き次第並ぶことになるかと思いますので、お楽しみに!

以下、自分の語った部分の内容を抜粋したものを軽く載せておきます。


片岡:
でもあの方と俺らの違いっていうと、やっぱりスタジオワークの量ですかね。
ああいう方(他のノイジシャンを指して)って、スタジオで、こういう音。ってのをちゃんと構築してからやられると思うんだけど、我々はそれをしないですね。あくまで即興演奏。
今って、音楽を手元で作れる時代じゃないですか。DTMみたいなのがあった上で、「自分の音」みたいな、アバターみたいなのがあるじゃないですか。
俺らが即興演奏でやるのは、もっと生のものというか。あくまでその場で、そこの人(演者、客含め)との空気を感じて、そこで出すべき音はなんだろうな、とか考えるのが俺たちのやるべきことではないかなと。 



片岡:
でもこれは楽しみでもあって、今の(俺らよりもっと)若い世代の人たちって、音質とかに対しての価値観が我々と圧倒的に違うと思うんですよ。俺らってやっぱり、カセットとかで音楽を録ってた時代から、着実に進化して、今ものすごくハイレゾみたいなとこにたどり着いてるんですけど、今15歳とか高校生の彼らっていうのは、パソコンがあって、そこに打ち込みしたら最高の音質なんですよ。産まれた時から手元にそれがある彼らの作る音楽ってのは、この先どうなるんだろうって。 

田中:聴くときの解像度が違いますもんね。 

片岡:
そうそう。ノイズっていうのも、曲は録れたけど変なコンプレッサーかかってる、みたいな。カセットで録ったとき。
で、それが好きで聞いたり録ったりっていうよりは、それで作るしかなかったっていう。
で、そのできる範囲の最高音質としての、カセットだったりMDだったり、ってのを使ってた最後の世代だと思うんですよ、俺らが。
それが着実に進化して、今は我々もスタジオワークで録れるようになったんですけど、でも彼らはそのパソコンで最初からいい音が出る。
そうなったときに音質っていうのは、(彼らにとって)どういう考え方になってきてるのかな?って。
だから逆に言葉とかメロディとかに意識がいってるのはそれでなのかなとか思います。
もう最高を知ってるから、音、音質にこだわりってのがそんなにないのかな、逆に。
でもそういう人たちが作ってく音楽ってどうなっていくのかなってすごく興味があります。 



田中:
ノイカシ的にはパソコンは使わないんですね。

片岡:
使わないですね。Mac2台で出来ることを人間がやることに意味がある、筈なんですよ。
そこはなんというか、俺の「期待」ですね。
全く同じ音が出てても、
パソコンに向き合ってるのと、汗だくで動いているのとでは、
違わないと人がやる意味がないし、ライブをする意味がないし、そうあってほしい。

感動ってのはそこに生まれるんだと証明したいですね。







2016年10月3日月曜日

「サヴァイビングカスライフ vol2」片岡フグリ(ライブ喫茶亀 メルマガ9月号)


「これは、持ってる、、これは、、読んだ、、」
と必死の検分はさながらテロ直後の空港税関の体を為す。
「危険はないか?」「脅かされやしないか?」という静かだが必死の入国審査が意識下でずっと続いていた。

びっしりと棚に詰まった本たちが写っている。
ある種の到達や自負心を無言の内に語っているそれらは、
あるべき場所に疑いもなくある様な顔をして鎮座している数多のバッグ、アメコミグッズ、またはポケモンぬいぐるみなどにも同様に言え、「雑多」の一言で片付けるのは不可能で、もはや「禍々」とも形容したいほどだ。
そのパワーにあてられながらも、目を離せないでいた。

墨田区押上、スカイツリーの城下町とも言えるロケーションに聳えるとあるギャラリーに川本史織さんの「女子部屋」という展示を見に行った。
都市に暮らす102人の一般ガール(それでも恐らくはある程度の水準を超えたアーティスト的な方々)の「部屋」と「暮らす彼女たち」を広角に捉えた写真が所狭しと並んでいる。

「誰が撮ったのか?」を知らない場合、写真の「解釈」は俺にとって難しいものになる。
一度でも会話した事のある他人のそれならば、ある程度の目線というか「共感」と呼ばれる同化を図ることで、「切り取られた一瞬」の空気みたいなものを、クチから出した湿る指先の涼しさ程度には感じられる。
意図して描かれた絵画とは違い、その配置や構図の中に「狙い」「言いたいこと」があるのかどうか、よく分からないからだ。
(森山大道のドキュメントを観た時も、なんかファインダーも覗かず都会で適当にカシャー、カシャー、で現像したら、あ、、超カッコイイ、、みたいなのいっぱいあったし、感覚のものなのかな?とか。または、そのラフさこそが技法の可能性もあるし、ファインダーなんて覗かなくても経験則から大体分かるようになるもんだよって噂も聞いたことあるし、、)

とは言え、そんな場合(作者と顔見知りなことなんての)はほとんど無いのだから、写真は自分にとって「まだあまりよく分からない分野」だと言える。
ので、大体は「何がどんな風に写っていた?」というディテールを見て、ここ行ってみてぇ~とか、すげーイカついピアス~とか物見遊山的なことを思うだけに留まる。

だが、被写体となっていた「ガールたち」に関しては別だ。
未だ火中深く、焼き栗となりて燻り続けている彼女たちとの軋轢については、
「ずっと黙ってたんだけどさぁ、、」
を皮切りに飛び出すさながら劣化ウラン弾的言葉の、半減期は十億年、
「代わりの男なんて、いくらでもいるんだから」や、「あの人に比べて、あなたは、、」
という足元崩しに始まり、
170センチ以下は人間じゃないから()
などの絶対攻撃に至り、未だ我が懐中にトラウマという名のミミズ腫れをリヒテンベルク図形の様に這わせ続けているのである。

とは言え、そんな人道爆撃にコンプレックスシェルショックになりながらも、さながら南国、雄大な自然と天真爛漫で温帯な気候が育んだ瑞瑞しい果実の様にトロピカルな彼女たちを植民地化してやりたい。というデザイアを抑えることもできず、未だその君臨を許し続け、次は勝てるんじゃないのか?と無謀な戦を挑み、国力をジリ貧とさせ続けているのが自分であり、幾割かの男というものだろう。

どうしても他者との付き合いの中で、無意識に「勝ち目」を探してしまう事がある。
特に地獄の底への鍵さえも担うケルベロス的ガールたちに接するに於いて、それは顕著だ。

予てからそれは、知識であったり、所有であったり、立場であったりといった肉眼では確認できない、会話の端々での観念的ジャブを繰り返しながら小出しに確認し、棒で藪を突つく様に安全圏を確保しながら、粛々と行われるものであった。

しかし、平素水面下で行われていた冷戦も、今回の展覧会では通用しなかった。
彼女たちが読んでいるのは、どんな本で、どんな物を集め、どんな暮らしをしていて、果たしてそれは俺に「分かる」ものなのか?
という事が、その「部屋」を垣間みることによって(端的にせよ)具体的に分かってしまう上に、所有者たる当人もそこに座っていたりする。
(かつ、大体はそこそこ可愛いし、どこか大胆で行動的なスケールのデカい進んだ人生を送ってそうだし、それでいてキレた途端にヤンキー口調に豹変し、テメェキンタマツイテンノカヨーー!とか言ってスネ蹴っ飛ばしてきそうなワイルドさも併せ持ってそうだし、、)

とにかく逃げ場がないのだ。情報量が多過ぎる。
となると、無意識に本棚に目を向けている自分に気付く。
わかるか?知ってるか?勝ち目はあるのか、、

そんな胃に悪い展示にふらついていたら、ちょうど写真家の都築響一さんとニアミスしたので、作家との話を盗み聞いた。

「サブカルは、アングラに勝てない」
脈絡なく、その言葉だけがスッと入ってきた。
彼女らや作家の創作物がそうだと言っているのではない、この場合でのサブカルとは、知識や所有、アングラとは思想や創作、行動の暗喩である。

所有では彼女たちには追いつけないのだ。
サブカルを制圧するためには、アングラ側、発話者側、彼女たちの瞳のその先へ仁王立ちするしかない。
それに思い至ることで、戦火に焼かれた灰色の田畑に仄かな勇気の萌芽を感じながらも、
いずれにせよ、まだしばらくは敗け続けることになりそうだな。


と暗渠たる気持ちを抱えながら、ファルス(スカイツリー)地下に潜り、帰宅。



2016年9月30日金曜日

<<SUPER MIDNIGHT SUN 2>>

「超白夜 2」
十一月十一日(金)

大久保ひかりのうま
十八時半開場 / 十九時開演
千八百円(+飲み物代)

出演
片岡フグリ
歳星
大元さむ
s.u.z.u.k tultuuga ockestla




2016年9月6日火曜日

「MELTING SHITTY POP NEXT vol.3」

10/7(金)大塚MEETS
START 19:00〜 
ENTRANCE¥1900+1D
出演
片岡フグリ
MONO NO AWARE
ペガサス
しずくだうみ
DJ 剤電


銭湯でライブをしました。
色んなところで鳴らしてみたいですもっと。

ライブオファー、お気軽にどうぞ。
kusomamireore@gmail.com







2016年9月3日土曜日

「サヴァイビングカスライフ vol 1」片岡フグリ (ライブ喫茶亀 メルマガ8月号)


二、三日後には地元(兵庫県)から母が東京にやって来るので部屋をどうにかしないといけない。
「手の届くものから読んでいく」を基本スタンスに、買いに買い込んだ漫画、小説、その他エロ関係の雑多で一種のバベルを形成している本の塔、何かに使えんじゃね?とソファー裏にとりあえず溜め込んでいるクリスマス島の蟹級に膨大な数のミンティアの亡骸、未だかつて誰も磨いたことのないキッチンシンクと油にまみれフルメタルジャケットの微笑みデブの自殺現場の壁面みたいになっているガスコンロ裏など、
断捨離、ロハス全盛のシニアを漫遊している彼女にとっては、卒倒。よくても帰省時お小言100年分くらいのフリースタイルディスのメンタルマシンガンを浴びせかけられる事態は必須であろう。

とは言うものの、還暦の大台を越え、ターシャ・テューダーの書籍を神棚に飾る彼女の心臓に不用意なダメージを与えるのはよろしくない。
と言うかさっさと問答無用の減点式内覧会を切り上げ、鰻、あるいは寿司、ステーキなどの摂取へとフェーズを移したい。掃除は、しよう。さもなくば、待っている未来はサイゼリアなのであるから。

東京へやってきてかれこれ6年の月日が流れたが、百代の過客を地でいく、
円環をかすかにビヨンドした程度の牛歩成り上がりで俺は一体どれだけのストーンをこの地にヘンジしてこれたのだろうか。
(火急のどうにかするを抱えたこの部屋にある)上京以来貯めに貯めた膨大なもの、もの、ものの全てを自分自身の「生」や「成し遂げ」の重さに変換出来得るとして、
どれほどの陥没をこの地に与えることが敵うのだろうか。

それほどまでに東京の地盤は硬く、未ださまようカスライフはあまりの奇抜さに建築されずに終わったザハ・ハディド建築の様に「野望」と題した設計図の基礎工事の素材集めに帆走している。
日雇いの肉体労働のさなか、通年で足を通しているスキニージーンズの内側に小さな熱帯を創出する汗を感じながら、
乾いた後に斑点になって現れる汗の結晶のようにオムニバスな想念を持て余している。

現在、自分は歌手としての活動と、ノイズバンド「エレファントノイズカシマシ」での活動、それからたまに入ってくる仕事として、デザイン、映像、時には文章などを製作している。
前述した様に上記の活動すべてに於いて稼げていないし、赤字になってしまうことも多い。故に単発派遣での肉体労働にて日銭を得、なんとかやっとこの現状だ。
肩書きとしては「ミュージシャン」となるか「バンドマン」となるのか、はたまた君から見れば「フリーター」なのか、唾棄すべきセンテンス「夢追い人」なのか、、

とは言え、就職という道を考えたことは一度もなかった。
「他人(この場合は社長)の夢のために一秒も時間を使いたくない」というドヤ顔のパンチラインを用意してはいるが、隠している方の本音を言うと「そこまでして生き延びたい」という熱が自分の中にあまり無いのだ。
「なんかつまんなそうでしんどそう」とすべてを平仮名で言い終えれるくらいの認識しか「就職」に対してはない。
例えば自分は未だ海外へと行ったことがなく、行かなきゃなーとも思うし、興味もあるけれど、それはある種の義務感や軽視恐怖に支えられたものであり、
「え~!?外国行ったことないの~??絶対行った方がいいよ~!ホント人生変わるよぉ~~特にインドとかインドとかインドとか!!」などと言ってくるやつの口を塞いでやりたい。というのが理由の何割かを占めているのは確か。
つまり、ほっておいてほしいのである。俺は俺のペースでやりたいんだ。
だけど、貫き通すほどの自信もないのでふらりふらりと流されてしまう。

ただし、遊びとしての旅行ならばそれでいいのかも知れないが、
暮らしの大部分を紐付けされてしまう「就職」これには抗わなければならない。
要は、同程度の金がなんとかなったらいいんでしょ?
と、そんな意欲のない俺がどこぞのオフィスに潜り込んだって、
褒められることもさほど無いだろうし、下手したらいじめられる。
(Youtubeウォッチの際に最近差し挟まれる「仕事できないのに納涼会には来んの~?」ってやつ、マジでしんどいからやめてほしい、、)

学生時代、まかないが超美味い自然食レストランでバイトをしていた際も、
店長に「今まで出会った中でダントツで使えない人材」と罵られ、カチカチに凍結したケーキを顔面に投げつけられた上にメガネを吹き飛ばされ、辞職した。
(その後すぐに仲直りをして、店長の彼女と三人でクリスマスケーキとターキーを食べてお祝いした)

そんな風に「どうせ就職も、あらゆる意味での凍結ケーキを投げられる日々なんでしょう?」というこの疑念をコペルニクスしてくれない限りは、
あるいはくどくどとやらない理由を並べ立てる俺に、たった一つのやる理由。
「揉むの揉まないの!?」の二択を迫る巨乳美女の様な存在を「ちなみに揉んでもいいのは今だけ!!」と提示してくれない限り、企業にて働くという道はないだろう。

そうなってくると、音楽が一番、楽なのだ。
なぜならそれなりにやり方を知っているから。
先ほどの海外渡航を例にとるなら、俺にとっての音楽とは「日本」なのである。
それに音楽を取られたら、俺なんて俺なんて俺なんての弱音ミルフィーユで今月分の原稿は終わってしまう。
だからこそ、ある意味で俺は「安定」した生活を送っているのでは?とさえ思える。
あとは「金」と「定期ちやほや」の確保があれば、このライフは成就するのだ。

夢はないが、野望はある。
この連載が狙うのは、ドキュメンタリーとしての「奇跡」である。
カメラが回っていることで、人は無意識に演技をしてしまう。
故に、語気が荒くなったり、突拍子もない行動に出てしまったり、ということが往々にしてあるという。「あったことを書く」が「書くためにあらせる」に転倒する瞬間。

毎月とペースは遅いが、なんらかのミラクルが読者というレンズを通して、
文章に於いても起きるかもしれない。
美しく生きるつもりはない。サヴァイビングカスライフ。
半目がちに、且つ狡猾に直視していく。

見守って頂けると幸いだ。