2016年10月27日木曜日

昨日は大学二年からかれこれ四年くらいやってるエレファントノイズカシマシというバンドのファーストアルバムの立会いミックスに行ってきました。
メンバーの編成も、ライブのやり方もこの四年で目まぐるしく変わって、
その中で何を録ればいいのか。ってずっと考えていたし、その場その場で出すべき音を。
な「現場音楽」にこだわりたい意識も凄くあったから、
ずっとアルバムは出しませんでした。

でもやっぱそろそろなぁ〜って意識もあったし、ありがたい事にそう言ってくださる方も少なからず居たので、
じゃあどういうものをって考えて「ベストアルバム」を作ろうと思いました。
楽曲のない我々、っていうか即興、ノイズに於いてベストって何?っていうことに対しても、今回で一つの答えが出せたかと。

ムークと二人で始めたあの日も、そして今もこれからもずっと俺達はノイズカシマシだし、中二、三くらい(むしろ小学生?)にテレコで初めて「録音」をしたあの日から、
連綿とそれは続いています。

好事家向けには作っていないです、
あくまで「音」を愛する全ての人へ。

楽しみにしていて下さい。






<<ELEPHANT NOIZ KASHIMASHI>>
2017年初頭、
エレファントノイズカシマシ、
フルアルバム「DISCOVERY」発売決定。
写真 萩原楽太郎
モデル 久富瑠奈
録音 佐藤慎太郎
映像 白岩義行 
詳細後日。


予定

10/28 大塚ミーツ(フグリ)
10/30 横浜国立大学(エレファントノイズカシマシ)
11/5 東洋大学(エレファントノイズカシマシ)
11/6 多摩美術大学(エレファントノイズカシマシ)
11/11 大久保ひかりのうま(フグリ)
11/20 甲府桜座cafe(エレファントノイズカシマシ)
11/21 渋谷喫茶smile(フグリ)
11/29 神戸スタークラブ(フグリ)
12/3 落合スープ(エレファントノイズカシマシ)
12/4 新宿バーブエナ(エレファントノイズカシマシ)
12/8 大阪松屋町地下一階(エレファントノイズカシマシ)
12/9 下北沢古書ビビビ(フグリ)
12/10 西荻窪フラット(エレファントノイズカシマシ)
12/11 半蔵門アナグラ(エレファントノイズカシマシ)
12/11 名古屋鶴舞DAYTRIP(エレファントノイズカシマシ)
12/17 外苑前アートスペースここから(エレファントノイズカシマシ)
12/23 鶯谷ワッツアップ(フグリ)

2016年10月10日月曜日

東京藝術大学音楽学部の田中志遠さんが制作されたZINE「アレ」の第一号にエレファントノイズカシマシのインタビューが掲載されています。
結成の経緯やこれまでの動向などが、これまでに世に出ているものの中で最も分かりやすくまとめられていると思います。
一冊300円で、郵送も行っているそうです。
自分が中継しますので、気になる方はこちらへメールください。
kusomamireore@gmail.com









ノイカシ物販にも届き次第並ぶことになるかと思いますので、お楽しみに!

以下、自分の語った部分の内容を抜粋したものを軽く載せておきます。


片岡:
でもあの方と俺らの違いっていうと、やっぱりスタジオワークの量ですかね。
ああいう方(他のノイジシャンを指して)って、スタジオで、こういう音。ってのをちゃんと構築してからやられると思うんだけど、我々はそれをしないですね。あくまで即興演奏。
今って、音楽を手元で作れる時代じゃないですか。DTMみたいなのがあった上で、「自分の音」みたいな、アバターみたいなのがあるじゃないですか。
俺らが即興演奏でやるのは、もっと生のものというか。あくまでその場で、そこの人(演者、客含め)との空気を感じて、そこで出すべき音はなんだろうな、とか考えるのが俺たちのやるべきことではないかなと。 



片岡:
でもこれは楽しみでもあって、今の(俺らよりもっと)若い世代の人たちって、音質とかに対しての価値観が我々と圧倒的に違うと思うんですよ。俺らってやっぱり、カセットとかで音楽を録ってた時代から、着実に進化して、今ものすごくハイレゾみたいなとこにたどり着いてるんですけど、今15歳とか高校生の彼らっていうのは、パソコンがあって、そこに打ち込みしたら最高の音質なんですよ。産まれた時から手元にそれがある彼らの作る音楽ってのは、この先どうなるんだろうって。 

田中:聴くときの解像度が違いますもんね。 

片岡:
そうそう。ノイズっていうのも、曲は録れたけど変なコンプレッサーかかってる、みたいな。カセットで録ったとき。
で、それが好きで聞いたり録ったりっていうよりは、それで作るしかなかったっていう。
で、そのできる範囲の最高音質としての、カセットだったりMDだったり、ってのを使ってた最後の世代だと思うんですよ、俺らが。
それが着実に進化して、今は我々もスタジオワークで録れるようになったんですけど、でも彼らはそのパソコンで最初からいい音が出る。
そうなったときに音質っていうのは、(彼らにとって)どういう考え方になってきてるのかな?って。
だから逆に言葉とかメロディとかに意識がいってるのはそれでなのかなとか思います。
もう最高を知ってるから、音、音質にこだわりってのがそんなにないのかな、逆に。
でもそういう人たちが作ってく音楽ってどうなっていくのかなってすごく興味があります。 



田中:
ノイカシ的にはパソコンは使わないんですね。

片岡:
使わないですね。Mac2台で出来ることを人間がやることに意味がある、筈なんですよ。
そこはなんというか、俺の「期待」ですね。
全く同じ音が出てても、
パソコンに向き合ってるのと、汗だくで動いているのとでは、
違わないと人がやる意味がないし、ライブをする意味がないし、そうあってほしい。

感動ってのはそこに生まれるんだと証明したいですね。







2016年10月3日月曜日

「サヴァイビングカスライフ vol2」片岡フグリ(ライブ喫茶亀 メルマガ9月号)


「これは、持ってる、、これは、、読んだ、、」
と必死の検分はさながらテロ直後の空港税関の体を為す。
「危険はないか?」「脅かされやしないか?」という静かだが必死の入国審査が意識下でずっと続いていた。

びっしりと棚に詰まった本たちが写っている。
ある種の到達や自負心を無言の内に語っているそれらは、
あるべき場所に疑いもなくある様な顔をして鎮座している数多のバッグ、アメコミグッズ、またはポケモンぬいぐるみなどにも同様に言え、「雑多」の一言で片付けるのは不可能で、もはや「禍々」とも形容したいほどだ。
そのパワーにあてられながらも、目を離せないでいた。

墨田区押上、スカイツリーの城下町とも言えるロケーションに聳えるとあるギャラリーに川本史織さんの「女子部屋」という展示を見に行った。
都市に暮らす102人の一般ガール(それでも恐らくはある程度の水準を超えたアーティスト的な方々)の「部屋」と「暮らす彼女たち」を広角に捉えた写真が所狭しと並んでいる。

「誰が撮ったのか?」を知らない場合、写真の「解釈」は俺にとって難しいものになる。
一度でも会話した事のある他人のそれならば、ある程度の目線というか「共感」と呼ばれる同化を図ることで、「切り取られた一瞬」の空気みたいなものを、クチから出した湿る指先の涼しさ程度には感じられる。
意図して描かれた絵画とは違い、その配置や構図の中に「狙い」「言いたいこと」があるのかどうか、よく分からないからだ。
(森山大道のドキュメントを観た時も、なんかファインダーも覗かず都会で適当にカシャー、カシャー、で現像したら、あ、、超カッコイイ、、みたいなのいっぱいあったし、感覚のものなのかな?とか。または、そのラフさこそが技法の可能性もあるし、ファインダーなんて覗かなくても経験則から大体分かるようになるもんだよって噂も聞いたことあるし、、)

とは言え、そんな場合(作者と顔見知りなことなんての)はほとんど無いのだから、写真は自分にとって「まだあまりよく分からない分野」だと言える。
ので、大体は「何がどんな風に写っていた?」というディテールを見て、ここ行ってみてぇ~とか、すげーイカついピアス~とか物見遊山的なことを思うだけに留まる。

だが、被写体となっていた「ガールたち」に関しては別だ。
未だ火中深く、焼き栗となりて燻り続けている彼女たちとの軋轢については、
「ずっと黙ってたんだけどさぁ、、」
を皮切りに飛び出すさながら劣化ウラン弾的言葉の、半減期は十億年、
「代わりの男なんて、いくらでもいるんだから」や、「あの人に比べて、あなたは、、」
という足元崩しに始まり、
170センチ以下は人間じゃないから()
などの絶対攻撃に至り、未だ我が懐中にトラウマという名のミミズ腫れをリヒテンベルク図形の様に這わせ続けているのである。

とは言え、そんな人道爆撃にコンプレックスシェルショックになりながらも、さながら南国、雄大な自然と天真爛漫で温帯な気候が育んだ瑞瑞しい果実の様にトロピカルな彼女たちを植民地化してやりたい。というデザイアを抑えることもできず、未だその君臨を許し続け、次は勝てるんじゃないのか?と無謀な戦を挑み、国力をジリ貧とさせ続けているのが自分であり、幾割かの男というものだろう。

どうしても他者との付き合いの中で、無意識に「勝ち目」を探してしまう事がある。
特に地獄の底への鍵さえも担うケルベロス的ガールたちに接するに於いて、それは顕著だ。

予てからそれは、知識であったり、所有であったり、立場であったりといった肉眼では確認できない、会話の端々での観念的ジャブを繰り返しながら小出しに確認し、棒で藪を突つく様に安全圏を確保しながら、粛々と行われるものであった。

しかし、平素水面下で行われていた冷戦も、今回の展覧会では通用しなかった。
彼女たちが読んでいるのは、どんな本で、どんな物を集め、どんな暮らしをしていて、果たしてそれは俺に「分かる」ものなのか?
という事が、その「部屋」を垣間みることによって(端的にせよ)具体的に分かってしまう上に、所有者たる当人もそこに座っていたりする。
(かつ、大体はそこそこ可愛いし、どこか大胆で行動的なスケールのデカい進んだ人生を送ってそうだし、それでいてキレた途端にヤンキー口調に豹変し、テメェキンタマツイテンノカヨーー!とか言ってスネ蹴っ飛ばしてきそうなワイルドさも併せ持ってそうだし、、)

とにかく逃げ場がないのだ。情報量が多過ぎる。
となると、無意識に本棚に目を向けている自分に気付く。
わかるか?知ってるか?勝ち目はあるのか、、

そんな胃に悪い展示にふらついていたら、ちょうど写真家の都築響一さんとニアミスしたので、作家との話を盗み聞いた。

「サブカルは、アングラに勝てない」
脈絡なく、その言葉だけがスッと入ってきた。
彼女らや作家の創作物がそうだと言っているのではない、この場合でのサブカルとは、知識や所有、アングラとは思想や創作、行動の暗喩である。

所有では彼女たちには追いつけないのだ。
サブカルを制圧するためには、アングラ側、発話者側、彼女たちの瞳のその先へ仁王立ちするしかない。
それに思い至ることで、戦火に焼かれた灰色の田畑に仄かな勇気の萌芽を感じながらも、
いずれにせよ、まだしばらくは敗け続けることになりそうだな。


と暗渠たる気持ちを抱えながら、ファルス(スカイツリー)地下に潜り、帰宅。