2017年12月30日土曜日

 「サヴァイングカスライフ 番外編」 (ライブ喫茶 亀 メルマガ十二月号) 片岡フグリ


中学時代にこんな事があった。

地元の中心部にイオンレベルの大型スーパーがオープンし、
当時結成していた組織へ(学内、学外問わずパンツが見え得るロケーション、スポットを発見次第、相互に報告しあうNGO)「あそこの吹き抜けエレベーターがヤバい」との通達が入った。

決行は週末。集合は朝10時。開店早々である。

しかし、何かの理由で当日、自分はそこへ行けなかった。
携帯電話を持たぬ当時だったので「明日、謝ろう」ぐらいに軽く考えていた。
 

そして次の日の教室、
「いやァ~ごめんごめん」とフランクに会合に出席した自分に叩きつけられた言葉は、「絶交」の二文字だった。

「パンツを軽んじるお前を、我々は、今後信用することが出来ない」

脱退しそれ以来、彼らとは疎遠になり今でも音信は不通である。

(後で聞いた話だが、彼らはそこでおよそ6時間もの間、文字通りの百花繚乱、鑑賞に明け暮れたそうである)


「パンツなんてただの布」

そんな風に言い捨ててしまう人間も多い。
しかしながらある種の男たちにとって、それは何にも代えがたい(故に友情を壊し得るほどの危険をも秘めた)聖骸布なのである。

それほどの魅力を放つ、「パンツ」とは一体なんなのか?

暫し、ある種の男の考察にお付き合い頂けると幸いである。
 


さて、早速いささかの迂回となるが、パンツとは切っても切れない関係にある「尻」と嗜好を二分するマジョリティ「乳房」について記述したい。


「揉めない胸は、無い」

突然のジゴロ発言恐縮と言いたいところだが、もちろんそうでは無い。

単純計算で、現在地球上に於いてはおよそ40億人分もの乳房が存在し、毎分毎秒という爆発的ペースでその総数は増加の一途を辿っている。卑近なストリートを例にとってみても、大小様々な膨らみに遭遇しない日は皆無と言っていい。しかしながら、その隆起は本当に実在を伴ったものなのだろうか?

「シュレディンガーの猫」という科学的思考実験では、蓋のある箱に入った猫に50パーセントの確率で青酸ガスを吸わせる、という状況を用意し(実際に行う訳ではない)、猫の生き死にを推測する。

箱がスケルトン状態ではなく、モニターもされていないとすれば、猫の生死は蓋を開けるまで分からない(鳴き声が途絶えたなどの判断要素は考慮しない)。この時、箱の中では、生きている猫、そして死んでいる猫、という二つの時間軸が並行して存在することになる。

この実験を上記に当てはめると、(グラビア的ビキニ、谷間を強調したどエロいタンクトップなどを例外とすると)、実際にその膨らみの内部に乳房、引いてはそれに付随する乳頭がある。という確証は得られない。いわんやその揉み心地に置いておや、である。

故に、恋人(場合によってはゆきずり関係)以外のそれは、あくまで想像と知識の範疇という事で遺憾ながらも完結とするしか無く、愕然たる事実であるが、40億(80対)ものおっぱいがこの世には存在するのに、我々は一生の内に文字通り一握りのそれしか、実感を伴い、手にする事は出来ないのである。

一度はよそ見したふりをして目を戻しながら、景色の鑑賞であると偽装しながらもまじまじとガン見するバストから想定されるのは、揉みたい、または挟まれたい、「うおぉ、デケぇ、、(ヤリて~~)」という本能的セックスへのプリミティブな希求であり、そういった行為が出来ない、という事に対する欲求への不満は大きい。

なるほど、パンツに於いても同様にそれは言える。



「パンツなんかワクワク、剥ぎ取られるだけのもの(theピーズ、ラブホ)」

ここに歌われている様に、中学、高校時代ならばまだしも、それを知った現在に於いてのパンツは、乳房同様、セックスの訴求要素の一つとして機能するということに異論はない。

それ故に、オバハンのパンツには「オエ~~」という漫画的リアクションを取るのが一般的反応(もちろん、例外はある)である。
その先に想定される、セックス、及びペッティング、或いはディープキスをイメージするからというのがその理由のひとつと言えるだろう。


筆者はパンツ、そして尻に関するグラフィティ収集を行うことをライフワークとしているが、そこに於いて一番良い「作品」とされるのは、「フルバックショーツ」と呼ばれる、お尻全体をカバーし、その形状を浮き彫りにしたものを着用した女性を、階段などのローアングルから接写しているものである。(俗に、「催す」「ムズムズ」「ムラムラ」といった感情を想起するものが良しとされる趣向に最も合致しているのがこのパターンの画像である)

とは言え、平素の暮らしの中で目撃可能なパンツと言えば、自転車を漕いでいる女性や、電車で前に座ったミニスカートの間から垣間見える一瞬のデルタ、といったショットがその大半を占めている。

もちろん、乳房に於いてもそれは言えて、(嗜好云々は別として)巨乳に膨らむ黒セーターに見とれるあまり、降りるべき駅で降りれなかったという経験は一度や二度では適わない。


だが、先述した様に、そう言った場合に於いても「誰かしらはあれを揉み胸中へ顔面を泳がせているのだな、、」と、他者を意識することによる「比べ」、場合によっては経験からくる(かつては触れることが出来たorかもしれない、可能性と知っているからこその)「無力感」「喪失感」が生じ、忸怩たる思いに包まれ、乗り過ごしたホームに一人佇むことになる。

だが、パンツの場合に於いては、訴求→満たされない→不満という図式に当てはまらない事の方が多い。
むしろ、コンマ一秒にも満たない接触にも関わらず、プラシーボ(ラッキースケベ効果)として精神に良く作用するのは何故なのか?
重複するが、セックスを知らないが故の「ファンタジー」としての女体への憧れを経、一区切りをした今もそれはある。


申し訳ないが、再度の迂回である。少しばかり、歴史の話をさせて頂く。



有史以前、例えばエジプト文明においては乳房を隠すという習慣はなく、男女に於ける下着の区別もはっきりとしたものでは無かった。
どちらかと言うと、身体を覆う。という事に念頭が置かれ、数枚の布を「巻きつける」というスタイルが下着、そして衣服の主流であった。

現在の様なスタイル(ブラジャー、パンツが分離独立した状態)が確立したのは近代以降のことである。
(この辺りのことは青木 英夫著「下着の文化史」に詳しい。余談であるが、当時乳房を露出することに対する羞恥心は男女ともに無かった)

時代が進み、近世、王政フランス真っ只中のヨーロッパ貴族女性がボディーライン(乳房と、臀部)を強調する為、失神せんばかりにコルセットを締め、ウエストを細くしていたという史実がある。

この逸話に象徴されるのは、近世に於いては、身体に於けるエロティシズムはその全体の総和として捉えられていたという事実である。
うなじや腋がどう、絶対領域がどう、家鴨に似せた口唇が、

といった細部は問題では無かったのである。
(ちなみに乳房は隠されていたものの、下着の分離はここに於いてはまだなされていない)

推測するに、「嫁ぎ、子を成す」という事が女性最良の幸せであるという当時の価値観により、直接的な生殖へのアピールがファッションの第一目的としてあったのであろう。

コルセット等の下着によって強調したダンベルの様な身体で、剛腕な殿方に鷲掴みにされることをこそ理想としたのだ。

時代が進み、現代、女性の労働、社会への進出が活発になるに従い、動きやすい衣服、活発で先進的な生き方を象徴するミニスカートの流行、それに併せて上下セパレートされた下着が遂に登場という運びになる。
「結婚(伴う出産)」こそが至高という価値観が衰退し、幸福の形や生き方が多様化した事によって、装い、つまり「おしゃれ」そのものを目的とした下着や、ファッションが登場したのだ。

一方、本国に於いては、長年の栄華を誇ったふんどし、腰巻きが衰退し、西洋下着が流入し(あくまで貴族中心に)一般化するまでには大正維新を待つことになる。

そして、二度の世界大戦を経、庶民へも、ワコール社を中心として、現在のパンツ、ブラジャーがセパレートされたスタイルが浸透をしていくのである。



長々と歴史を辿ってきたが、要するに「現在形パンツ」の登場、そして細部に寄せる嗜好の成立は、あくまで最近の出来事だということである。
故に、我々がパンツそのものに寄せるフェティッシュは大変現在的価値観であるという事だ。
とは言え、「パンチラ」という概念は近年の日本に於いてガラパゴス的に発展してきた文化であるというのが通説である。
(諸外国に於いては、巨乳、巨尻といった身体を賛美する傾向は現在にしても根強く、露骨なセックスアピールが美徳とされている文化圏は確かに存在する)

筆者は「フルバックショーツ」の圧倒的破壊力について上記したが、

どちらかと言うとそれは、西洋近世に於けるボディーコントラストの強調に端を発した、生殖という本能への訴求の現在形に過ぎなかったのかも知れない。

要するにデカいケツがエロくて好きなだけで、そこにパンツがある必要は差し当たってはない。
同様に、乳房に於いても同じ結論が得られるだろう。

膨らみでもブラチラでも無く、その先の「(大小の趣味は個人差があるとしても)おっぱい」にこそ本能的な関心、ファルスが向かっていのである。
故に、まるで「おあずけ」をされた様な欲求不満くすぶりがそこには内在するのである。
しかしながらパンツは、パンツとして(先ほど述べた様なラッキースケベ効果の様に)既に価値がある。
生殖と無縁とは言わないまでも、それとはまた別のベクトルでの価値も、パンツには含有されているのだ。



以前訪れた「女子部屋(
川本史織写真展『The “LUCK” room - #堕落部屋 #女子部屋 -』)」という写真展では、雑然とした生活空間にその創造主たる女性が鎮座している様子が描写されていたが、裸や露出が無いにも関わらず、それは凡百のグラビアを遥かに凌駕する、大変エロティックな代物であった。
筆者はここにパンツの魅力へのひとつの光明を見た気がした。
まとめると、こうである。

密閉遮断され、ある条件下に於いてしか不可視、不可触な乳房 

= (上記同様の)尻、性器 
許可、承認なしに入ることの敵わない「女子の部屋」という「プライベート」かつ「シークレット」な空間。

それらの「垣間見え」としてパンツは定義されるのではないか
ここにこそ、生活空間に於けるエロティシズムの真髄があると筆者は言いたい。


思うに、現代日本を中心として、その文化が進展した背景には、わびさびという本国独特の概念が影響を及ぼしているのではと推察される。露骨に見せるのでなく、「思いを馳せ、想像させる」、勿論、たった一枚の布の先にあるのは、生殖器そのものである。
しかしながら、布を一枚差し挟むことで、危うさを残し直接的なエロスを匂わせながらも、乳房に於ける大小と膨らみといった指針し平均されたが故に、シチュエーションや、色柄、タイミングなどが重視され、露骨なエロスを包含してはいるものの奇跡的にパンツは、単体としての「美」を体現する事に成功している。

もちろん、これは男>女、という誤った価値観が主流を占めている場合は成立しない。
承認なしに見る事が(平素は)叶わないものの一端が垣間見えたからこそ、そこにエロティシズム、引いては聖性が顕現するのである。
そして、見られるかも知れない、見せることがあるかも知れないという多かれ少なかれはあれど、女性側の意識が作用しているからこそ、そのエロティシズムは 何倍にも跳ね上がる。(だからこそ、例えばパンツを盗む。という行為を筆者は理解しかねる。女子部屋同様、所有者、選択者たる女性がそこにいるからこそのエロティシズムだと考えるからである)


暮らしの中で偶然と目にするパンツ

 エロスを伴いながらも、同時にそこにはある種の神秘的コミニュケーションが展開される。
あなたは誰で、私は何で、という言語による個人間のやり取りはここでは必要がない。
(女子部屋という展示はそのメルクマールとしての一端を持っていたからこそ、興奮に値するものとなっていたのである。

展示では、被写体となっている女性に関する情報が少なく、名前も知らない彼女の部屋と職業だけが描写・明記されている)

それを偶然にも見ることが叶った時、我々は小さな声で「ラッキー」そして、心の中で「ありがとう」と呟くことだろう。
見知らぬ他人のそれであるにも関わらず、その深い謝意の前には社会的身分などは胡散霧消してしまう。

「神」
大それた言葉に聞こえるかも知れないが、風や、空、そう言った自然現象や、街角に置かれ、描かれた鳥居に、ふとした瞬間その存在を感じること。
それと同じ感覚が不意のパンツとの遭遇には生じるのだ。

 「パンツ」が存在する世界に生き、それを理解できる価値観を持っている幸福を、呼吸し感謝し続けること。日々に於ける信仰とは、そんな風に何気なく、気配として存在する神道的なものなのである。

故に、過剰な接触や盗撮は暗黙の禁忌として定義され、それを犯した者は痴漢として、

社会的に抹殺される。
(見たい、浸食したいという気持ちは大いに理解するが、マナーとルールはいつ何時も遵守するべきなのだ、中学時代の筆者自身への自戒も込めて) 

神聖を侵すこと、聖域を踏み荒らすことは許された事ではない。あくまで、偶然である事に意味がある敬い、尊重して始めて、神秘は光を放ち始める。


くるりの岸田繁氏は、学生時代、女性と会話をした日を記念日とし、スケジュール帳に大切に記録していたそうだが、
ふいに出逢えたパンツ、色とりどり人それぞれの、

そのすべてが殺伐とした日々に咲く、一輪の椿としてあるのだ。

(了)