2018年3月17日土曜日

短編『歪な円盤』片岡フグリ

「これであなたもひとりぼっちね」
そう言って、食べ終えた彼女は去るのである。
目の前には俺の分のパンケーキが一枚、手付かずのまま放置され、天井では音もなくゆっくり、ゆっくりとプロペラが廻っている。
例えば、「あのさぁ電話代返してくれる?好きでもない男との深夜の無駄話のためになんで払わなきゃなんなかったわけ私がそれか化粧品、百歩譲ってケーキかなんかおごってよね」だとか「別にあんたレベルの男なんていくらでもいるんだし付き合ってる訳でもないのに時間割いてあげてた私への超ささやかな感謝でしょまぁそれもこれも全部今日で終わりなワケですがサービスでバッチリ化粧もしてきてあげたし、まっ有終の美ってヤツですよ」
だとか、そんな言葉を小耳に挟んで隣席にお座りのあなた方はどう思われたのだろうか。
なんて。どうも思いやしないか。
いずれにせよ、一人の男がデパ地下の喫茶で叩きのめされている。結局のところ、ただそれだけの話。それでも、チャンスはあるかもラッキーなんとか万に一つなんて思ったりしちゃったからこんな風にノコノコ出てきて馬鹿面を晒している。ていうかケーキでも何でもおごるから逢いたかった話したかった顔が見たかったんだよとスイーツかましまくっていたのも事実だ。
それにしても、彼女は確かに美しかった。(マスクをしていない顔も久々に見た気がする。化粧が面倒だからと口癖のように言っていたが、今思うとそれも「武装する価値もないレベル」の男だと思われていただけだからかも知れないが)
これから彼氏か、それに準ずる新しい男にでも逢いに出掛けるのだろうか。
面倒な「予定」を片付けて。
それとも、俺のためだけにマジで俺のためだけにバッチリ決めてきたのだろうか。なんて。それはもはや邪推の領域。そんな訳がない。そんなことをする訳がないんだよ好きでもない男のために。だけど、これで何もかも終わりなのだとしたら、もっとちゃんと見ておけば良かったのだろうか。
自重しろよスイーツ。思い出を増やしてどうするんだこれ以上。
流れ続けるピアノは気をやるまでもなく意味のない音の連なりで、ただ漠然と降り注いでいる当たり障りのないことだけが美徳のどこまでもバックなグラウンドミュージックだ。涼しさも感じないプロペラは相変わらずぐるぐるとなんの意味もない廻転を繰り返している。
皿の上でパンケーキはジュクジュクに蜜を吸って、さっきまではフワフワと柔らかそうだったのにもはや甘ったるい円盤と化してしまった。タイミングを逃せば、それはただの「物」になってしまう。食欲はないが、フォークを手にする。切り分けるナイフは見当たらない。食べてしまおうか。それで、忘れてしまおうか。できるものなら。
うっすら笑って、彼女は消えた。
思えばあの夜から、何かがおかしくなってしまった。

夜の散歩は珍しいことではなく、入学当初、たまたま同じゼミだった彼女とは同じ帰り道、バスを降りて歩いたり、時には少しお茶をしたりとそれなりに仲良くやっていたつもりだ。(全てが無駄な時間だったし最初から別に楽しくもなかったと今になって彼女は言うが)
その日も、彼女は美しかった。
友人の紹介で出逢った男と、二回目のデートでホテルに行ったという。恋人でも何でもなく、妹みたいなものだとか、女性としては意識していないだとかそんなつもりだった筈なのに、嬉々として「初めて」を語る彼女へまず抱いた感情は、先を越されたという敗北感である。俺だってヤれたのに感と言い換えてもいいかも知れない。要するに、悔しかったのである。なんだかんだで箱庭のような二人のこの時間を、愛しいものと思ってしまっていたのである。漫然と恋愛相談なんかを受けながらも、それをただの話題として、本当の第三者なんて想像だにもせず、ただ進まない時間だけがぐるぐる続くと思っていたのだ。
その日の散歩は、先を歩く彼女に黙って俺が付いていくという不思議な状況で進行した。
肌寒い秋の夜である。暗い路地に行くにつれ、歩く人もいなくなる。空には満月がひとつ。
街灯と街灯。十数回その隙間を数えた後、ほんの少し、いやかなり高ぶった気持ちを断ち切るよう出し抜けに「抱きしめても、いいですか」と聞いてみた。
次の明かりはもう少し後で、振り返った彼女には顔がなかった。
「別にいいけどそのくらい、せっかくだし胸でもさわってみる?」と淡々とした言葉で、「おごってあげるよなににする、カフェオレでいい?」とでも聞くみたいに彼女は言った。
今思うとそれは、処女を失ったばかりの女の、ほんの気まぐれだったのかも知れない。
とは言え、動じながらもせっかくならとお願いした。
ぎこちない中学生でもあるまいに、神具を奉るように路地の真ん中でおずおずと両手をそこへかざす。
予想された柔らかさとは裏腹に、カーディガン越しに触れた胸はフォルムが分かるだけのただの硬い膨らみだった。感じ取ったのか否か、「せっかくだしノーブラになってあげよっか」と彼女は言った。
さっきからなんのせっかくやねん。どうしようもなく情けなくなって、その申し出は断った。
だって、やりたい放題やった男の後じゃないか。外して、ホックを、結構、大きいね。うんう、綺麗だよ、すごく、綺麗。いいよ、電気、消すね、でも、ちょっと、残念、だってもっと、見ていたいから。照れてるの?かわいいね。とかなんとか抜かしながら、揉むはおろか、だったんじゃないのかよ。
今でもそれを後悔している。
終わらせておくべきだったのだ。俺も触った、済ました、という優越と、「こんな感じ」という達成を手にしておくべきだったのだ、惨めな気持ちになるとしても。
現実に手を伸ばし箱庭を壊す勇気がなかったばっかりに、刻み込まれてしまったのだ。美しい魔法の一夜として。
それから、たまらなくなって抱きしめてしまう。ゆっくりと横を向いた彼女は、「なんか、気持ち悪い」と一言だけ呟いた。
やってしまったと思ってももう遅く、夜の散歩はその日が最後になった。関係は歪になって今日まで一方的に俺が彼女を追いかけた。
ひょっとしたらどこかで見下していたのかも知れない。いつまでも彼女は処女で、俺の知る範囲で、分かる範囲で生きていると思い込みたかったから、一歩踏み出した彼女に、ブラジャー越しにしか触ることが出来なかった。
そういえば、満月に照らされてほんの少し見えた横顔は、去っていく彼女がさっき見せたものと同じだった。反復されたそれが、思い出をなぞり、血を滲ませる。

さて、パンケーキをどうしよう。もういっそのこと、一思いに食べてしまおうと仕方なくフォークを突き刺し持ち上げてみる。たわんだ円盤。
「連れ去ってくれたらいいのに」
たった一人の宇宙人だったら良かった。地下街の喫茶店、地球人の、他人の中でそう呟いてみる。そうすれば言い訳もできるのにな。「好き」って言葉も意味も知りませんでしたってことにして欲しい。そうして、時期になれば誰かが迎えに来るんだ。待っていればいつか。
とは言え、帰れる星なんてどこにもなく、彼女の背中もずっと前に見えなくなってしまった。どんな形だったのだろう、彼女の胸は。どんな感触だったのだろう、本当のそれは。きっと美しい、球体だったのだろうな。
天井ではプロペラがゆっくり、ゆっくりと廻っている。
結局パンケーキはそのままに、冷めてまずいコーヒーを飲み干し、二人分の会計を済ませ外に出る。
すっかり夜になってしまった。フェイドインする街がうるさい。

季節は春、どこまでも遠い月だけがまんまるだ。